───── 鳥のうた6 ─────
2002/3/1

ロンドンにフィルハーモニア管弦楽団という名手ぞろいのオーケストラをつくってカラヤンがそれを心ゆくまで練習してレコード用の録音をする。この計画を立てたのはワルター・レッグというレコードプロデューサー。理由はナチスとの関係を巡ってカラヤンの演奏活動が制限され、極めて不自由だったからである。この時代のカラヤンのレコードの演奏は実に充実している。さわやかな叙情、誇張の無い起伏で緊密、率直な表現に満ちている。後年のカラヤンの演奏とは少々ことなる魅力に溢れていると私は思う。その頃から私たちは━━例えば岩城宏之や私はカラヤンをよく聴いたが、そのうちに、あることに気づいた。どうもレコードでの演奏は休止符の時間を短めにしているような気がしたのである。録音を編集してなるべく演奏上、音響上のキズが少ないレコードを作るときに技術的な都合で無音の時間が短めになることも考えられるし、そうではなくてレコード用録音という状況を考慮して指揮者の判断で休止符の時間を短めにしているのかもしれない。実際に演奏を聴くのとレコードを聴く場合とで最も明らかに異なるのは音量のバランスである。オペラにおける歌とオーケストラの関係、いろいろな楽器とオーケストラの協奏曲の独奏楽器とオーケストラの関係。これは勿論ラジオやテレビの場合も似たようなことだが、実際に演奏を聴く時にはあり得ない音量のバランスを作り出していることがよくある。ごく簡単に言えば、独唱や独奏がいつどんな場合でも必ず前面に出ていて、何から何まではっきり聴き取れるように細工してある。作曲者がここは歌は聞えなくてもいいや、と思って大オーケストラを思う存分鳴らした部分、或は器楽の協奏曲では独奏楽器がオーケストラの波に呑み込まれそうになって時々チラチラと顔を出すスリルを作曲者が楽しんでいる場面でも、録音では独唱や独奏はなぜか常に前面に出ている主役であり、あらゆる細部までが鮮明に聞き取れる。こういうものを聞きなれている人たちは演奏会場でオーケストラと独奏楽器が秘術をつくして渡り合い、丁々発止と真剣勝負を繰り広げて緊張感溢れる共同作業を実現すると、独奏者のせっかくの素晴らしい音楽を無神経なオーケストラと指揮者が台無しにした、などと言うのである。それは聴衆や批評家たちだけではなくて音楽教師の大部分も全く同じで、生徒たちの演奏のどんな部分も全部聞き取れないと「オーケストラの音が大きい」と言い続ける。こういう害毒はもう何十年も世の中に存在する。音楽家や音楽教師はもっと楽譜そのものから何が必要なのか、何が聞えなければならないかを自分自身でしっかり読み取らなくてはなるまい。そして演奏でそれを示さなければ作曲者たちが思い描いたのとは全く異なる風景を私たちは生み出し続けることになってしまう。
指揮者は楽譜の隅々まで何度でも繰り返して読む必要がある。だから私は紫外線が多いな、と思うところに出る時はサングラスをかけようと考える。指揮者はその場で鳴り響く音の全てを聴き取り、聴きわける必要がある。だから私はヘッドフォンを使わない。だが、このようなことは人それぞれ、一人一人が違う考えを持っているだろうから一般論はあり得ない。楽譜はざっと眺めて録音で覚えこんでしまう人もいるかもしれないし、どんな音が出ていようが自分のイメージを空中に浮かべて腕を振り回せる人もあるだろう。素晴らしい音楽家で、だから素晴らしい指揮者である人たちを私はたくさん知っているし、その人たちを心から尊敬し、憧れてもいるのだが、どうも指揮者という「職業」は胡散臭い、と時々おもうのである。