───── 鳥のうた7 ─────
2002/3/11

東京はもう春の陽射しだというのに盛岡では一晩に何十センチも雪が積もったとテレビが言っている。中央ヨーロッパの春もまだ浅いはずである。初めてヴィーンで春を迎えた年の4月、陽射しに誘われてコートなしで外出したら、たちまち先輩や友人たちにコートはどうした、コートを着なさいと厳しく言われた。なるほど日陰での風の冷たさは東京では経験したことのない鋭い刺すようなものである。そういえば8月下旬のパリ、ヴェルサイユ宮殿の裏で吹き通る風がまるで冬のような冷たさだった記憶もある。海に面して温暖な関東で生まれ育った私にはまったく想像できない事柄である。
想像も出来ないと言えば、私たちの国で拡声器が撒き散らす騒音が野放しになっていることは少なくともヨーロッパの、いわゆる先進諸国では想像もつくまい。電車に乗ろうとすると、電車が来ます、電車が出ます、白線の後ろに下がれ、ドアに手を挟むな、順番に押し合わずに乗れ、……こう書いているだけで恥ずかしく、バカバカしく、腹立たしいことの連発、しかも大音量でスピーカーから流れてくる。プラットフォームの両側でアナウンスを男声と女声に分けたり、親切なつもりかもしれないが、それがテープで流されるわけだから双方が重なった時は誰にも簡単には聞き取れない。電車に乗ってほっとする間もなく車内アナウンスもうるさい。特に東京が酷いのは自分では気取ったつもりの鼻持ちならない間違ったアクセントの車掌さんたちが少なくないことで、この病気は静かに東京発の新幹線へも侵入しつつある。東京の地下鉄ではアナウンスがテープで流されることも多いがこれも無表情で甲高い声の酷いもの。そういえば新幹線も含めて駅の電車の発着を知らせるベル(を含めた音響)は第1に音量が大きすぎるし、内容が酷いし全く不要。邪魔以外の何物でもない。新幹線もだが私の知る限りでは東京の山手線が特に酷い。音楽まがいのオルゴールの壊れたような調子はずれの大音響が流される。その上にマイクを握って興奮した駅員の絶叫や呼子のピリピリーがほとんど必ず重なるのだから、たまったものではない。私がいつも心配しているのは、ほんとうにそういう大声が必要な時、たとえばプラットフォームを歩いている人に危険が迫ったときに注意を呼びかけても誰も気にかけないのではないか(いつでも大音響の騒音にさらされているから)ということである。目の不自由な人たちや身体的な障害をもっている人たちに大音量のアナウンスは必要だという意見があるのは承知だが、それは周囲の人たちがさりげない心配りをする習慣を取り戻すべきだし、無用な大声を張り上げている駅員たちが目配りをすれば済むはずではないか。ヴィーン国立オペラ劇場の建っている大通りの交差点はエスカレーターでも昇り降りできる地下を通行できるようになっている。そこを歩いていたとき、中年の婦人がエスカレーターに乗ろうとしてつまずいたら、その瞬間に数人の人たちが走りよって助け起こした。普段はそのようなことに敏感でありたいと願っている私にとっても、ほとんど衝撃的な光景であった。胸が熱くなった。私たちもこうありたいと強く思った。
この頃町を歩くと大混雑の盛り場に限らず、ごく普通の住宅街でも前を見ないで横を向いたり、携帯をかけながら目を宙に浮かしたりして歩いてくる人たちがたくさんいる。それは若い人に限らない。年配者も同様である。だからしばしば人とぶつかりそうになるが、そういう人たちは何も気にしない。狭い歩道を自転車が相当なスピードで走りぬけ、歩行者がビクビクしていることも日常化している。これはいったいどうしたことか。誰に向って何を訴えたらいいのか。
外国旅行をする日本人は非常に多いという。外国を団体で歩くと大声で行儀が悪いのはアメリカ人、ドイツ人、日本人であるという説がある。それぞれ、一人になると非常に気弱でおとなしいという説もある。その真偽はどうでも良いとして、食事中に周囲の迷惑になるほど大声で笑ったり話したりするのは私自身も何度か見聞した。外国旅行とは関係ないが食事中のタバコも私は賛成できない。美味しいものを食べに来て食事前に、ましてや食事中に自分だけではなく他人の感覚をも邪魔するタバコを喫うことは許される筈もないと私は考える。お断りしておくが私の友人や親しい知人に愛煙家はたくさんいる。
まあ言い始めたらきりも無いが今回は意地悪じいさん、横丁のご隠居になった。妄言多謝、というところである。
追記:繊細な味わいが特に重要だと思う寿司なのに禁煙をはっきり表示してくれる店が無い、と嘆いていた私たちは仙台で「福寿司」という素晴らしい老舗に出会った。カウンターに、煙草ご遠慮願えれば幸甚に存じます、というカードがさりげなく置いてある。タバコを喫える一隅も用意してある。この心配りこそ本当のもてなしというものであろう。