─────  鳥のうた8  ─────

2002/3/28


 3月の初めは桃の花が美しい。沈丁花や水仙の香りがほのかに漂い、やがてこぶしの花も咲いて何だか胸ときめく思い、今年はそれに早く咲き始めた桜まで重なって大変なにぎわいであるが、この季節をだいぶ遡った2月のマジョルカ島で真っ白い花が満開のアーモンドの林に出会った時の、まさに息をのむような感銘は忘れがたい。それはショパンがジョルジュ・サンドと共に滞在していた「風の家」と呼ばれる質素な家を訪ねたり、ショパンの使っていたピアノのある古い教会へ行ったりした時のこと。国内国外を問わず仕事以外ではほとんど旅行などしたこともない私にそんな体験ができたのはテレビ取材を私にさせてくれた素晴らしい人たちとの出逢いがあったからである。
 1983年、名古屋の「中京テレビ」は名古屋フィルハーモニー交響楽団を主役に据えた定時番組を作るという常識では誰も考えもしない筈の大胆な企画を立てた。その時中京テレビは開局15年であるが、このような企画を許し励ましてくださった当時の代表取締役社長、 石川恒夫さんとそれを引継いで下さった方々にはどのように感謝しても足りない。テレビでのオーケストラの定時番組はNHKのNHK交響楽団中心の番組以外にはほとんど見当たらないことは、このような企画の桁外れの難しさの証明であろう。名古屋フィルハーモニー交響楽団と私が番組収録の現場でお世話になったたくさんの方たち(ことに理想のプロデューサー福田信郎さん、新進気鋭のディレクターだった伊豫田祐司さん、岡田進司さん、名和 滋さん、そして素晴らしいカメラや照明や音響や美術やスィッチャー、タイムキーパーなどなど、このチームの皆さん)は例外なく皆さん若く行動力充分であり心配りはこまやかで、この番組出発当時は慣れない分野であったオーケストラの音楽について驚異的な努力で急速に知識ばかりでなく確かな見識も身に付けてくださったことは頭が下がるばかりである。それほど興味も無かったこの分野の音楽を本当に好きになってしまった人も一人や二人ではないことに私たちは感嘆した。
 中京テレビのこの番組は1983年4月「ファンタスティック オーケストラ」として始まり番組名を変更しながら86年3月まで続いたが、これはスタジオで収録するのが基本であった。86年4月からは「名フィル サンデーコンサート」となって名古屋市及びその周辺の中小の町へ出かけて、様々なホールで直接オーケストラを聴いて頂く形となり88年9月まで合計5年半に及ぶ長寿番組となった。しかも私の知る限りでは、この番組が終ることになった直接の原因は、オーケストラ側が不用意に、マスコミは中京テレビだけではないのだから私たちは他のテレビ局とも仕事をするぞ、などと余計なことをわざわざ中京テレビに「申し渡し」に行ったためである。本当に取り返しのつかぬことをしてくれた。そんなことさえなければまだまだ続けていただけたろう(視聴率が低くて大変なご迷惑をかけていたのだが)と悔しい思いをした。一所懸命にオーケストラと番組を支えてくださったスタッフの皆さんはもっと強い思いを持たれたであろう。ほんとうに申し訳ない。
 オーケストラの番組が終った後の88年10月から2年間、私が世界中のいろいろな所へ出かけて報告する形の「外山雄三 音楽世界の旅」というものがほとんど同じチームで作られた。一人では行けるはずの無いいろいろな所へ連れていっていただいたこと、あまり馴染みのなかった作曲家や作品や、それにまつわる土地についてもたくさんの勉強をさせていただいたことは忘れがたい。冬のヴェネツィアでおいしいイカ墨のスパゲッティを食べたこと、素晴らしい教会の鐘の響きが早朝のホテルの部屋に届いて夢のように目覚めたこと、カザルスの足跡をたどったスペインの空気、ザルツブルク近郊でマーラーを偲んだ夏、……思い出は限りが無い。いつかご報告したいとは思うが事実の豊かさに比べて私の文章力が追いつかないだろう。終わりに中京テレビ放送開局20周年に私が書いたものを引用する。
 中京テレビに名古屋フィルハーモニー交響楽団が初めて登場させていただいたのは、昭和58年4月から始まった「ファンタスティック オーケストラ」である。毎週日曜日の夜、1時間の番組に出演させていただくという破格のことで、名フィルとは何か、オー      ケストラとは何か、指揮するとはどんなことか、そして、音楽とは何か、ということを名古屋を初め岐阜や三重も含めて、実にたくさんの人々に一挙に広めていただいた。昭和61年4月からは「名フィル サンデーコンサート」と番組名は変わり、時間帯も少し変わったが、名フィルを中心にする姿勢は1度も変わらず、名フィルの充実した演奏を引き出そうと一貫して工夫研究を重ね、様々な苦労をしていただいた。年齢的に言えばスタッフのほとんど全員が「非常に若い」と言っても良い若々しさであったが、そのすがすがしい新鮮さと共に、職業人としての誇りに裏付けられた旺盛な探究心や猛烈な表現意欲、限りないエネルギーや斬新な発想、そして音楽そのものへの執着は私たち音楽家側を賛嘆させ続けた。61年9月末まで、満6年半の間、一つのオーケストラが毎週、定時番組に出演させていただいたことになるが、これは、日本で他に例が無いだけでなく、世界にも多分、このような例は見当たるまいと日本中の音楽家たちがうらやんだ。この6年半、名フィルは名前を知られ、顔を知られることになった。それも確かに大変重要だし、とてもありがたいことであったが、この番組に出演したおかげで、普通の演奏会だけでは手の届く筈の無い実に幅広いレパートリーを演奏させていただいた。それに録音録画というものの独特な緊張感もオーケストラには得がたい貴重な体験であった。この重要さはとても筆舌につくせないが、ある人が、あの番組があったから音楽が身近なものに感じられ、音楽が親しいものに思え、音楽が好きになった、と語ったことが忘れられない。私たちは何と素晴らしいことに参加させていただいていたかを、いま、しみじみと思う。


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