─────  鳥のうた10  ─────

2003/2/19


 朝比奈 隆先生が珍しくニューヨークに居られてアルトゥーロ・トスカニーニの演奏(ラジオの公開録音であろうか)を聴きに行かれた晩、トスカニーニは演奏途中で指揮棒を落とし、そのまま舞台を立ち去って演奏会はそこで終った。翌朝の新聞にトスカニーニが引退すること、彼のNBC交響楽団が解散することが同時に載っていたそうである。

 1960年の初めからヴィーンの新聞は何度も「ブルーノ・ワルターがヴィーンへ戻ってくる」とほとんどいつも写真入で大きな記事を載せた。この年はマーラーの生誕100年だったが、5月に始まるヴィーン音楽祭の開幕演奏会でブルーノ・ワルターがヴィーン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮するのである。当時ヴィーンで暮していた私は勿論前売りの窓口に行列して切符を手に入れた。ワルターがヴィーンに到着した翌朝の新聞は、彼が飛行機のタラップを降りる大きな写真で一面トップを飾った。演奏会当日のムジーク・フェライン大ホールは超満員、コンサートマスターにヴィリー・ボシュコフスキー、ワルター・バリリ、楽団長で第2ヴァイオリンの首席はオットー・シュトラッサーという時代である。舞台上手から微かに足音が聞えたかと思うと客席は一人残らず立ち上がって拍手を始めた。ワルターがゆっくりと舞台に現れる。しばし鳴り止まない拍手と言うと月並みだが、その拍手は20分ほども続いたろうか、その間ワルターは優しく微笑んでいるような表情で半ば客席を、半ばオーケストラを見渡しているように見えた。ようやく拍手が鳴り止むと楽団長オットー・シュトラッサーが長年の功績を称え、心からの尊敬と感謝を込めてヴィーン・フィルの栄誉指輪(Ehrenring)を差し上げると短く述べ、その指輪を贈呈した。これはヴィーン・フィルの長い歴史の中でもごく限られた小数の人にしか贈呈しないものだそうである。演奏の第1曲はシューベルト「未完成」、初めて見るワルターの指揮は優しい学校の先生のように懇切丁寧なもので、あのヴィーン・フィルで、しかも「未完成」なのに、いろいろな楽器の「入り」をいちいち指示しているように見えたのが印象的であった。次は「フィガロ」の伯爵夫人や「ばらの騎士」の元帥夫人などで名声実力共に絶頂期だったエリーザベト・シュヴァルツコプフの独唱でマーラーの歌曲3曲。日常の習慣と違ってブルーノ・ワルター(男性)が先を歩き、その数歩後からシュヴァルツコプフが、まるで侍女のように付き従って舞台に現れたのは忘れがたい光景である。「トランペットが美しく鳴り響くところ」「やわらかなリンデの香り」「私はこの世に忘れられ」の3曲がしっとりと歌われた。音楽を敬い、音楽に仕えるとはどういうことかを教えられたように私は感じた。休憩後はマーラーの「4番」(独唱・シュヴァルツコプフ)。何も言うことなし。ヴィーンで再びブルーノ・ワルターを聴くことは無いだろうとほとんどの人たちが感じている長い長い暖かい拍手が続いた。ヴィーン歌劇場の黄金時代を築きながら音楽監督の座をたった10年で追われたマーラー、直接の弟子としてマーラーの作品を、さまざまな困難と戦いながら演奏し続けたワルター、そのワルター自身もヴィーンという町とは浅からぬ因縁がありながら、ヴィーンがナチス・ドイツを積極的に受け入れたことや戦争などで、一筋にこの音楽の都を愛するということにならなかったのは「時代」のせいなのだろうか。そのこともたくさんの人々の頭をよぎっただろう、その人に別れを告げる長い長い拍手であった。この前年(1959年)私はヴィーン・フィルハーモニー管弦楽団の定期演奏会でハンス・クナッパーツブッシュの指揮するブルックナーの「3番」を聴いた。その後、国立歌劇場で観た彼の「トリスタンとイゾルデ」が鮮烈な印象を残したので、夏の終わりにミュンヘンのオペラ週間に出かけて再びクナッパーツブッシュの「トリスタン」を聴いた。仮住まいの劇場、ヴィーンから見ると古めかしい感じの美術や演出の中でクナッパーツブッシュのヴァーグナーはずしりと私の中に残った。その時代のヴィーンで何度も観に行ったのはヨーゼフ・カイルベルト指揮のリヒァルト・シュトラウス「ナクゾス島のアリアドネ」。ひっそりと目立たぬ動きで上演全体を引き締めているカイルベルトの素晴らしさは説明のしようが無いが、それを知っていてオーケストラ・ピットにカイルベルトが現れると上演前なのに、まるでカーテン・コールのような拍手と歓声を浴びせたヴィーンの聴衆も素晴らしかった。

 ヴィルヘルム・フルトヴェングラーもトスカニーニも私は見ていない。時代が少しずれていたからである。そう考えると、こうして誰それを聴いたとか見たとか書くことが虚しく思える時があるが、ワルターもクナッパーツブッシュもカイルベルトも必要以上の大音響で人を驚かせたり、派手な身振りで踊ったりすることは決してなかったのだ、と改めて想い起こす。


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